日暮れと共に降り出した雨は、夜半近くなった今もまだ降り続いている。
普段、これくらいの時刻なら、あちこちで人の気配がしている屯所も、今日ばかりは、しんと静まり返っていた。
それだけ、真選組にとって、この事件が重たいものだった。ということなのだろう。
心と体の激務が、屈強な隊士たちに、深い眠りを与えていて、まるで屯所そのものが、昏睡しているようだった。
土方は、杯を満たしている酒を一息で飲み干した。
その隣では近藤が、じっと庭先を見詰めたまま、酒をちびりちびり飲んでいる。
酒を飲み干して、視線を庭先に戻した土方の眼下で、庭の紫陽花を濡らしている大粒の雨は、土方の頭上で、縁側の屋根を打ち、音をたてる。
その音がまるで屯所を包み込んでくれているようだ。と、感じて、土方は、天を仰いだ。

今はただお眠り。

雨音によってかえって静寂が浮き立つようでさえあった。

土方の隣では、近藤が、やはり何も言わずに、くつろいだ様子で、物憂げに体を傾け庭先を見ていた。そして、ちびりちびりと酒を飲む。いつもは雄弁な近藤の表情も、今はとても静かだ。それ故に、土方は、その表情から、近藤が何を考えているかを、推し量ることができないでいた。けれどもまぁ、それもいい。土方もまた、何も言わずに、もう一杯、杯を仰いだ。グッと一気に飲み干すと、いつもより高い酒が、胸に沁みた。

(静かだな)

と、思う。本当に静かだ。つい此間までの屯所からは考えられない。
全て終わってみれば―いやまだ残った問題が山積みなわけだが―あっけないほどに。
ハッピーエンドとはいかなかったけれど、それでも尚、久方ぶりのこの静寂は、土方をとても安心させた。
一時はもう戻って来れない。と、思ったぐらいだ。こうして隣に並ぶと、どれ程自分の心というものが、近藤の側でくつろいでいるのかよくわかる。得難い心地よさ。もう二度とあんな思いは御免だ。
だからこそ、と、土方は息を吸った。
おそらく真選組の本当の正念場はこれからだろう。混乱し、雑然としている組織をもう一度立て直さなければいけない。そして自分も。有耶無耶に、流されるまま過ごせば、再び自分を見失うかも知れない。戦うのが怖くなるかもしれない。それだけは、本当に御免だった。
そっと隣を伺えば、近藤が、うつらうつらしている。
「寝るか?近藤さん]
けれど近藤は首を振った。
土方は、さも愛しそうに目を細めると、酒瓶を手に取り、自分の杯についだ。縁側に転がっている、近藤の杯を取って、それにも酒をついでやる。
体中が重くて、本当は、自分もこの男も、さっさと眠りにつくべきだ。と、頭ではわかっていたが、体の深い深い部分に居座る何かが、とてもじゃないが眠ってくれそうになかった。

その矢先、隣で、また、眠そうに大欠伸をした近藤が、

「総悟の奴、よく大人しく寝たよなぁ」

唐突にそう言う。
なんだか裏腹な科白だな。と思った土方の脳裏に、「近藤さんを待ちてェ」と駄々をこねた沖田の姿が浮かんだ。

「アイツは怪我人だ」

近藤が、松平の所に行ったので、やむなく沖田の世話を土方がやいた。
上着に隠されていた沖田のシャツは、想像以上に、血で真っ赤だった。

「トシが説得したんだろ?だったら尚のことだ。なんて脅したんだ?」
「残業代みねーぞ。って言った」

嘘だ。本当は、「近藤さんの負担をこれ以上増やすな」と。
土方は、おもむろに、懐からタバコを出して銜えた。ライターを切らしているので、仕方なく、マッチで火をつける。一連の動作を近藤がじっと見ている。視線を感じて、土方は、ドキリとした。

こんな空間だって、思えば、随分久しぶりだった。

「吸うか?」

自分に注がれる近藤の視線を外したくて、土方は、タバコを差し出した。

「ああ、そうだな。たまには1本頂くかな」

近藤は、小さく微笑むと、土方からタバコを受け取り銜えた。火をつけてやる時に、近づいて、土方は気づく。近藤の眼の下のクマ、皺、その疲れた顔。

(歳、取ったんだな俺たち)

今度は、土方が、美味そうにタバコを服する近藤を見つめた。紫煙がゆったりと、雨の中に溶けてゆく。
近藤がタバコを吸う様を見るのは、それこそ随分久しぶりだった。

「そんなに見つめるなよ。照れるじゃねーか」

また、近藤が静かに笑う。

「いいだろ。減るもんじゃねーし」

土方も、静かに笑い返した。

悲しみは、ずっしりと重たかったが、体の疲労はとうに限界を超えていたし、心の整理がついてない今は、まだ、なんの結論をだせるわけでもなくて。あの時、アレ以上のことが出来た様にも思えず、それで、自分たちは妙に落ち着いているのだ。と、土方は思う。

(考える、余裕さえ、今はまだ・・・)

沈黙の間に、雨音が落ちる。幾重にも幾重にも重なって。
たゆたう二筋の煙は、闇の中へ、霧散して消えてゆく。

ただ悲しい。


「なぁ山崎、生きてるかナァ」
「さぁな。どーせアイツの事だ。葬式でもやってやったら帰ってくんだろ。足つきで」
「間、悪いからな。アイツ」

口元に意地悪な笑みを浮かべて、近藤は、輪になった煙を吐き出した。
(そんなこと出来たのか。意外だな)
そう思いながら、土方は、近藤の目が、これっぽっちも山崎の死の可能性を考えていない事を確認し、笑った。

早く帰って来いよ。なんて、土方も、柄にも無いことを思う。


「なぁ、近藤さん。俺、もう少し、謹慎続けるわ」

そして、土方は、意を決して、タバコを消し、近藤の横顔に、そう言った。
土方の視線の中で、近藤が、一度大きくタバコを吸い、ゆっくりと吐き出した。紫煙は、もう、輪ではなく、暗い空に流れていって、緊張を隠せないまま、土方はその煙を目で追う。
それから近藤の顔が、ゆっくりと、土方のほうを向いた。

「なんで?」

「これ、ケジメつけねーと」

土方は、こんな時にすら、傍らを離れない妖刀を持ち上げてみせた。

「長期休暇なんて取れねーだろ?」

「うん。それは無理」

少しだけ、間があって、近藤がいつもに近い笑みを浮かべる。
その顔だけで、馬鹿みたいに安心して、土方は、「近藤氏〜」とか口走りそうになった自分の口を、文字通り塞いだ。

「ありがと」

けれど、身体の衝動までは押さえ切れないで、思わず近藤に抱きつく。
近藤の肩に顔を埋めると、泣きたいくらいホッとした。

(近藤さんの匂いがする)

久しぶりだった。

「アンタに出会えてなかったら、あるいは俺も・・・」

思わず、本音が零れ落ちた。近藤に、トントンと、背を、優しく、叩かれる。
(ったく。妖刀早くなんとかしねーと)

「何言ってんだ。トシは大丈夫。先生、とは、間逆じゃねーか」
近藤の声は、あくまで優しい。けれど、土方は、「先生」と言った近藤の語感が特別優しかったのに気づいた。
少し、妬けた。
ギュウと、近藤の背に回した手に力を入れた。

間逆じゃない。認めたくないけれど、近いものがあった。
彼は、都合のいい理解者を欲しがった。
俺は、独りは平気だと言い聞かせていた。

「買い被りだ、近藤さん。俺、ホント、アンタ無しでは駄目だ。マジで」
「なら、俺の方こそ。今回の件は特に俺が悪かったんだ、ス・・」

近藤の唇を、指で押さえて言葉を切り、土方はじっと近藤の目を見つめる。

「それは、もう言うなよ。な?」

(近藤さん)


「トシくゥゥゥーん!!」

今度は、近藤が、目の端に涙を浮かべて、土方の肩に縋り付いた。
3秒くらいそうして居たかと思うと、小さな声がする。

「今度は、俺の番。少しだけ、な、トシ」

「解った」の代わりに頭を2、3度撫でると、やがて、肩に温かい気配を感じた。





「悔しい」



「トシ、悔しいよ俺」





「ああ」



近藤の肩が、小刻みに震えている。近藤の背をさすりながら、土方は、無性にタバコが吸いたくなった。
風が、涼やかな風が、庭先から吹いてきて、土方はそちらを見た。



オイ、伊藤、俺は今でもお前が、大ッ嫌いだ。

近藤さんがこんな風に泣くなんて、何回あった?
死しても尚近藤さんの特別だなんて、気に食わねェ。

いいか、お前、近藤さんをこんな風に泣かせたんだ。



責任とって、



せめてあの世で幸せになれよ。






 

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近藤さんの静かな顔って多分ヤバイ。
先生結構好きでした。合掌。