黄河



昨日の夕方から降り始めた雨は、一夜以上たった今も、まったく衰える気配をみせずに降り続いている。
ふくらはぎの真ん中辺りまでロールアップされた近藤の制服のズボンの裾は、登校時に濡れたまま今もまだ湿っていた。
学校が生徒一人分と見積もって与えてくれたスペースは、平均よりもやや健全に発育した近藤の体躯には小さすぎて、机からはみ出した片足を通路に投げ出して、頬杖をつき、近藤は窓の外を見た。

窓の外では急に強くなった雨が、近藤の視界に広がる全てを灰色にけぶらせている。運動場にはいくつもの川や池ができていて、黄色い水が行くあても無く低い所に向かって流れていた。

雨の日はけして好きにはなれないけれど、雨の日の教室は少し好きだと近藤は思う。

外がどんよりと暗い分、いつもは意識もしない教室の蛍光灯がやけに明るくて、朝なのに夕方を頭の片隅で錯覚してしまうこの妙な雰囲気や、けぶる雨で輪郭がぼやけた外の世界と、湿気と、この中にいればけして濡れないという安心感で出来たうっとうしい喜びが、なんとなく近藤に特別な事を予感させて、それで用も無く窓の外を―まぁ晴れの日も見るけれど―ついつい眺めてしまうのだ。

東の空の遠い所に黒雲が見える。
雷雲ならいいな。と近藤は思う。
そうなればお妙さんは、キャーと悲鳴をあげるだろうか。
そしたら俺はお妙さんを抱きしめて・・・。

「近藤、おい近藤」
「あ?なんだよ?ヅラ」

今いいとこだったのに。
近藤の妄想は後ろの席の桂によって破られて、
「ヅラじゃない桂だ。黒板の左下何て書いてあるんだ?お前で見えない」
近藤の意識はにわかに授業に引き戻された。

「えーとな、科挙」
「カキョ?」
「科学の科に、あげるっつー字」
「アゲル?」
「手を挙げるの挙げる。あーえーとな、なんだろ、あー挙手の挙!ほらツの下に手ってかくやつ」
「ああ、わかった。教科書に書いてあった」
「早く見ろよバーカ」
「バーカじゃない桂だ」

世界史の山川がちらりと近藤たちの方を振り向いた。近藤は慌てて前をむくと、「ごほん」とわざとらしい咳払いをして授業が再開される。

「中国を統一した隋の文帝は、北朝の諸政策を継承し、中央集権化に努めた。さらに」

眠いなぁ。山爺の声って何でこんなに眠いんだろう。

隋、唐。文帝、科挙。海の向こうの国の遠い昔の話。三国史んとこ面白かったんだけどよォ。曹孟徳、劉備玄徳、諸葛亮孔明。

中国か。そういや黄河ってあんな色してんのかな。

運動場にできた水溜りの黄色い水に再び近藤の意識がいく。
大粒の雨が激しく打ちつけて、波紋が広がる余裕も無く、運動場の隅では黄色い濁流がごうごうと溜まっていた。

すげー雨。

教室の空気は暖かく、山爺の声が響いている。遠い中国の昔話より、近い現実の雨に気を取られて、だけど特に思うことも無くぼんやりと雨空をみていると、ただでさえ強い風のために斜めになって落ちる雨粒が、突風にあおられて空の中で大きなうねりを描いて波のようにゆらめいた。
近藤は少し目を大きくしてその様子をじっと見た。

すっげぇ今の。
自然ってすげぇな。

昔テレビで見たオーロラを思い出した。

誰かに伝えたくなって、だけどヅラじゃ話がややこしくなるし。

近藤はそっと辺りをみまわす。生徒の半分が、山爺の魅惑のボイスにやられて夢の中だった。

「トシ」

隣の列の二席前には土方が座っていて、そして土方は起きてちゃんとノートをとっていた。

「トシ」

小声で呼んでみるが土方は気づかない。ケシゴムでもちぎってなげようかと一瞬本気で考えたがやめた。

総悟は寝てるしなぁ。

2列向こうの一番後ろに座っている沖田は、俯いてペンを握ったままピクリとも動かない。

「ぜってェバレない寝かた練習したんでさァ」

自慢げに言っていた沖田の口調を思い出して近藤は微笑んだ。

まぁいいか。

授業が終わったら、二人に話しよう。

腹減ったァ。

ちょうど見上げた時計は10時10分を指していて、近藤は、今日はついてるなぁと思う。

窓の外では雨がけぶっている。
ロールアップされた近藤のズボンの裾は濡れている。
2時間目の途中だというのに、もう腹が減っている。
土方は真剣な顔でノートをとり、沖田は真剣な顔で眠っている。


高校を卒業してしまったら、こんな日常二度とないだろう。

夕方みたいな朝と、運動場に出来た黄河と、雨のオーロラ。
科挙の漢字を誰かに説明する事も、ケシゴムをちぎって投げようか考える事も。

あとは雷がなればパーフェクトなんだけどな。


近藤はまた窓の外を見る。

黒雲は遠い東の空。






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私が高校生だった頃、私はこれ以上にアホでした