肉食獣の眼




なんだか、変だ。



さっきからずっと感じている視線が誰のものかは、わかりきっている。この部屋には今、俺とトシの二人しかいないのだから。


なんか、変だ。絶対変だ。


そっと、振り向くと、トシは壁に凭れ掛かって書類に目を通していた。その横顔は真剣そのもので、慌てた素振りも見られない。どう見たって書類に集中しているようにしか見えない。でも、確かに俺は感じていたのだ。今の今まで、はっきりと、強い視線を。


「俺の顔になんかついてるか?」


おかしいな?と、思いながら、トシを見ていると、俺の視線に気付いたトシが顔を上げた。書類から視線を外して、小首をかしげたトシの声は無邪気だった。トシを捕まえて無邪気というのもなんだか変な気がするが、トシの動作は、ごく自然で、何の遜色も見られない。ついさっきまで、俺を見ていたなんて事は言うまでも無く信じられなかった。


え?じゃぁ誰だよ。まさか。おば・・・


でも、その可能性がもっと低い事を、俺は知っていた。

うまく説明出来ねェんだけど

なんだか息苦しい。ような、妙な空気が、今夜の俺の部屋には溢れていた。

外は、雨が降っている。昼間に降り始めた雨は、今も屯所の屋根を叩き続けている。
静けささえ生むような、連続する音の群れが、書類を読む間、部屋に漂う沈黙を埋めて、息をするのも緊張するような有様だった。久方ぶりの雨は、秋になって以来乾いていた空気に、潤いを与えて、外気はしっとりと冷たく重たかった。
今夜の、妙な空気を、俺は、雨のせいだと思いたかった。なのに、厠に行こうと障子を開けて、湿った冷たい新鮮な空気を吸い込んだ時に、それが、思い違いな事に気づいてしまった。


「いや、別に。トシ、今日なんか・・・」


「何?」


声かけにくい。なんて、科白は、本人に面と向かって言うべきものじゃねぇよな。でも、今夜のトシは、どこか不機嫌というか、どこか危険というか、なんかとかく変だ。絶対変だ。

俺は、うまい言葉を見つけられずにもごもごと口篭る。トシの顔から視線を落として、襟元を見ると、トシにしては珍しく、半端にとかれたスカーフがだらしなく首に巻かれていることに気がついた。


「アバンチュールだな」


咄嗟に言った言葉は、自分でも馬鹿かと思うような言葉だった。案の定、予想通り、トシは眉を寄せた。

「近藤さん、それ、意味わかって使ったか?」


強い眼差しだった。何かを含んだ強い視線をトシは俺に向けて、俺はたじろいだ。
なんでか知らないけれど、頬が熱くなるのを感じた。こんなにビビらされる程の言い間違いだっただろうか?いや、そんなことねェよな。

「ごめんなさい。適当に言いました」


でも、俺は、トシが怖かったので、一応謝っておく。深入りするなと脳みそが、警告しているような気がした。



「教えてやろうか?」


思いがけず、思いがけずだ。トシが書類を置いてニヤリと笑った。


「い、いい、いいえ。結構です」


俺は両手を前に突き出して、トシを拒否した。落ち着けトシ。落ち着け俺。ニヤリと笑ったトシはついで、前のめりになって、俺たちの距離は縮まる。そんな事だけでなぜか俺の心臓はドキリとなった。なんか変だ。トシが変だ。うまく説明出来ねェんだけど、絶対絶対変だ。

野生の動物みたいだと、不意に思った。しなやかな身のこなしの肉食獣。


「さぁ仕事仕事。続き続き」


それで、俺は、わざとらしく咳払いなんかして、机に向き直る。
俺たちの間をまた雨音が埋める。その間中、俺は背にトシの視線を感じていた。
そんな調子だったので、集中なんて出来る筈も無かった。俺の目は文字の上を滑っていただけで、内容なんておよそ一文字分も頭に入ってこず、冒頭に戻る。という作業を3回やった時点で、俺は、我慢できなくなって振り向いた。

今度はトシは俺を見ていることを隠さなかった。


「トシ。なんだよ?お前。今日・・・」


「何だと思う?」


トシは襟首に指をかけてスカーフを取るとまたニヤリと笑った。
長い指が白い布地にかかって、シュルリと衣擦れの音がした。


「な、何言ってんだ。お前」


俺の方はと言えば、やましい事など何も無いのに、自分でも可哀想なくらい動揺して、声が上擦った。
トシは、そんな俺の反応を、心底、愉しそうな表情で眺めていたかと思うと、急に、立ち上がった。
俺はビックリして、身体が固まる。

「何?」

立ち上がったトシを見上げると、トシはクスリと笑みを漏らした。


「便所」


そう言って、足早に去っていった。残された俺は、ぽかんと口を開けて、その背を見送り、トシの背が見えなくなってから、大きな溜息をついた。



「つーか、なんだよアレ」



なんかドキドキしすぎて、そんな自分が嫌になって、俺は、横になった。





「何だと思う?」


その科白を俺は、3日前にも聞いていた。
その日、俺は、こんな風に机で事務仕事を片付けている途中に、嫌気が差して、ちょっと休憩のつもりで横になっているうちに、ついうかうかと昼寝をしてしまったのだった。

目を覚ますと、そこに、トシが居た。正確にはトシの顔があった。それも焦点をうまく結べないくらいすぐ近くに。

あれ?と、思って、なんせ寝惚けていたし、なんでトシがいるんだ?とか、あれなんで俺横になってんだ?とか色々思っていると、トシが、無表情で「よォ」と、言った。 その顔が、あんまり無表情だったので、怒られるかな?なんて思って、でも黙っているのも微妙なので「よォ」と、返した。
今思えば、おかしな事だが、その後何秒も沈黙があって、俺とトシは不思議な事に、その間中向かい合って見詰め合ったままだった。トシは両の腕を俺の顔の横に置いていた。俺は、ちょっと意味わかんねェと思ったけれど、なんせ寝惚けていたし、そのまんましばらくじっとしていた。だって、あれ、なんだか、キスされるようなそんな体勢だったのだ。
キスだなんて自分でも意味わかんねェ。でも、漫画とか、シチュエーション的にはそういう感じだった。
あれれ?これ?なんだこれ?しばらくじっとしていたけれど状況がまったく変わらないので、自分でも、もうちょっと考えろよと今は言ってやりたいんだが、俺は、単刀直入に、トシに聞いてしまった。


「トシ、お前、何してんの?」



「何だと思う?」



「は?」


今、思えば、これがいけなかったんじゃないだろうか。だってさ、普通、質問に質問で返すか?総悟ならともかく、トシだぜトシ。何だと思う?って言われても。わかるわけねェっつーの。

ただ一つはっきりしてることがある。

あの日から、トシがおかしい。


みんなはいつもと変わらないって言うけど、絶対におかしい。総悟はいつもおかしい。って言ってたけど、そういうのとも違う。うまく説明出来ないんだけど、おかしいんだよ。アイツ。入れ替わったか?まさか、また妖刀のせいか?



そんな事をグダグダ考えていると、廊下を渡る足音が響いてきたので、俺は、起き上がった。足音が止まって、障子が開き、冷たい空気とともに雨音が強くなった。


「近藤さん」


「なんだ?」


今度は我ながら、うまく返事が出来た。


「休憩しねェ?」


振り返ると、トシの手に酒が握られていた。あ、良かった。いつものトシだ。そう思って、俺はトシの顔を見た瞬間、また、固まった。


「近藤さん?」


「い、いや、何でもねェ。俺、もうちょっと頑張る」

「どうしたんだよ、今日。アンタなんかいつもと違うぞ。熱でもあんの?」


トシの気配が近付いて来る。俺は、鼓動が速くなるのを感じた。耳の奥がドクドク言っている。


「無い。ないない。熱なんて無い」

「そうか?顔真っ赤だぜ」


トシの手が無遠慮に伸びてきて俺の額に触れた。俺はこの3日間、俺を見るトシの視線の温度がけして低くない事に気がついていた。
気がついていたけれど、考えないようにしていた事に、愚かな事に今気がついた。俺を見るトシの目の熱量を俺は知っている。それは、俺が、お・・・

「近藤さん?」

俺の動きがすっかり固まってしまっているのに気がついたトシは、俺の額から手を離すと、また、クスリと笑みを漏らした。トシが離れて行ってほっとしたようなちょっと名残惜しいような気分になりながら、俺は、肩の力を抜きかけた。

その時に、背を抱きとめられた。

「い゛っ」

俺の口から変な声が飛び出た。でも、トシはまるでお構い無しだ。
背後からしっかり抱きすくめられる。トシの手が俺の腹に回り、トシの顔が俺の肩に埋められた。
俺の心臓は速く鳴る。耳まで熱い。腹の奥が熱を持つ。変なのは俺か?

「ト、トシ」

上擦った声で名を呼ぶと、腕の力が強くなった。



「近藤さん。俺、もう、我慢しねェから」




耳元で囁かれた言葉が熱くて、何かが、俺の背を駆け上がった。

ぞくりと肚をふるわせたそれは、凶暴な力を持っていて、俺は屈してしまうかもしれないと慄いた。






ああ、身体が熱い。






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お題「背が粟立つ」