拭いきれない悲しみがある。

俺にではない。

あの人に。



時には昔の話を・・・





「どうしちまったんだ俺は」と呟いて、縁側に腰掛け、一人手酌で酒を煽っていた土方は、白く凍えた己の掌を見つめた。


ここ2、3日の土方は、ある事に心が囚われて、大人気ないと分かっていても、どうにも苛立ちを抑え切れずに詰まらないミスばかり犯している。
問題は解決してしまえば済むのだが、今回ばかりはそういう風にもいかなくて、心が上の空のあまり余計な仕事ばかりを増やして、余裕が無くなり、苛立つことが増える。
完璧な悪循環に嵌っていた。

しかも本日に至っては、ようやく取れたOFFだというのに、気遣う近藤から逃げるようにして一日を過ごした。
最悪なのは自分の名を呼ぶ近藤を無視したことだ。
わざわざ、自分を心配して、歩み寄ってくれた近藤の行為を踏みにじった。
なんて事だろう。
こんな事一度だって無かったのに・・・

あげくコレだ。

酒を仰いでも仰いでも一向に酔えない。


冷たい風が吹く今宵満月。

寂々とした空を見上げていると、心に引っ掛かっている酷く寂しい記憶が自然蘇った。



**

土方が近藤に出会った頃、近藤は既にあの懐かしくも田舎臭い道場の跡取りだった。

先代は男の盛りで、時勢はまだ剣を必要としていたから、片田舎の道場ではあったけれど、それなりに門下生も多く、いつだって可愛がられていた近藤をもっと独り占めしたいと歯がゆく思っていたような記憶が土方にはある。

特に近藤を可愛がっていたのは、ご隠居の先々代で、腕が立つとは到底思えない好々爺のその人は、随分と土方にも良くしてくれた。
今思えば自分なぞは、さぞかし無愛想で可愛げのない子供だっただろうから、本物の好々爺だったのだろう。
今でも土方の脳裏に思い浮かぶ爺様の笑顔は温かい。だから近藤はこのご隠居に本当によく懐いていたのだった。

―その好々爺の命日がつい先日あった―

けれども世の中というのものは、どうにも不可思議なもので、人の運命には時折、悪戯で悲劇的な演出がもたらされる事がある。

先々代の好々爺は幼い近藤を庇って死んだ。

そう言うと、酷く悲しい話に聞こえるが、事態はもう少し複雑で、それ自体が彼の死の直接的な原因というわけではない。
先々代の命を奪った直接の原因は、もともと長く患っていた病で、彼自身はその事件が起きる前から、何も無くてもいつ死んだっておかしくない身の上だったし、土方の記憶にある爺さんは、その時点で、十二分に天寿だったと言える程紛れも無い年寄りだった。

けれども、体調を急激に崩した原因は、確かに幼い孫を守ったことだ。
その事実は変わらない。


その事件の日、まだ少年だった近藤は、あまりに楽しくて、ついうっかりと日が暮れるまで、山を一つ越えたところの村で友人と遊びふけっていた。
ようやく帰宅し始めた頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていて、これ以上遅くなればますます叱られるだろう。と、思った近藤は考えた挙句近道をした。
その近道というのは、人気の無い山道で、日が暮れたら通ってはいけないとキツク言われていた場所だった。
迷う心配は無かったが、ここを通ったとばれたら尚怒られるだろう。と、気が焦っていた近藤は、とにかく暗かったし一人だったのでどうにも心細くて夢中で走って帰った。
山といってもそれほど高くも大きくも無い、丘といってもいいほどの小さな山だ。近道をすれば子供の脚でも1時間とかからない。元気だけはあまっていたから足元だけを見つめるようにして近藤はただひたすら駆けた。
ところが、自分の村の灯りが見えはじめたので少しホッとして、後は山道を下るだけ。という頃になって、近藤はおかしな気配に気付いた。
後をつける気配がするのだ。
焦っていたからなのか、その時までは気付かなかったのだが、それも気配は一つではない。
既に剣を習っていた近藤は、走る速度を速めながら木刀に手をかけそっと耳を澄ました。
そして、恐怖した。
四つ脚の獣が駆ける足音とハッハッという息遣いが聞こえたからだった。
野犬か、狼か・・・。
どちらにしろ幼い近藤が戦って勝てる相手ではない。
止まれば食べられる。
そう思うと胃が縮み心臓が飛び出しそうなほど恐怖して、無我夢中になって近藤は山道を駆け下りた。

(誰か、誰か、助けて)

近藤の逃げる気配を察して獣の足音も俄然速まる。
やっとの思いで里まで降りて、全力で坂道を駆け下りたがためにガクガクする膝をどうにか動かして、それでも我慢強く近藤は逃げた。
近藤が逃げ出した事で、大人しくしている必要のなくなった獣たちが、獰猛な鳴き声を発して追いかけてくる。

(恐い。恐いよ誰か)

恐怖と動悸で、幼い近藤の心臓は爆発寸前だった。
道は依然として暗く、獣たちが諦めそうな気配も無い。
すっかり暗くなってしまったせいか人気も無く、当時はまだ道も悪い。
幼い子供の脚でここまで逃げて来れた事自体が既に奇跡だった。
しかも、幼い近藤の体力は当に限界を超えている。
そう長くは持たなかった。
目に涙を溜めて、パニックになりかけていた近藤の体は、やがてついに大きく傾き、そのままバランスを崩して倒れた。

(ああ、食われる)

咄嗟に身を丸くして近藤は目を瞑った。
もうダメだ!
そう覚悟を決めた。

けれど

聞こえてきたのは、

何かが空を切る音、
鋭く打ち付けられた音、
そして、「キャイン」という獣の悲鳴だった。

恐る恐る頭をあげて近藤は息を飲む。

これほどまでに強い人を見たことがあっただろうか―

そこに居たのは、木刀を握った大好きな祖父だった。

仲間がやられた事で猛り狂った獣どもと戦う、年老いた祖父の動きは、優雅とは程遠い荒く激しいものだった。
余裕はなく、必死さが幼い近藤にも伝わってきた。

それでも、その猛々しい背中を近藤は一生忘れない。

もっと余裕があって、もっと洗練された剣客を近藤は知っている。
一目見ただけでビビってしまうような大男を見た事だってある。
動きだけなら、道場で舎弟に稽古をつけている父の方がよほど綺麗だろう。

けれど、近藤は、その全てに無いものを、自分の人生の中で一度だって感じた事のない強さを、少し曲がって痩せこけた老爺の背に見ていた。

お世辞にも綺麗とはいえない戦いぶりなのに、すぐさま、形勢は祖父に傾いた。
3匹をのした所で獣たちは文字通り尻尾を巻いて逃げていった。

(助かった)

安心した途端、恐怖で体中が震えて、ヨロリと祖父が近寄ってくるのを待たずに、近藤は大声をあげて泣いた。




その次の日、近藤の祖父は、病状が急変し、3日間高熱をだした後、床をでることも出来ないほど衰弱して、一週間を待たずに他界した。




普段の元気をすっかりなくして、毎日目を真っ赤に腫らし、苦しそうに唇を噛む近藤の横顔を土方はよく覚えている。
かける言葉も無い。とはまさにあのことだった。
「爺様は元々病気だったんだ」とか「孫を守って死んだなんてあの人らしい死に方だ。気にする必要はないよ」というような言葉をかけられるのを近藤は嫌がった。
どうしようもない責任を感じてただじっと耐えている姿に、大人たちは、苦笑を浮かべながらも立派なもんだと感心していた。
近藤に輪をかけてどうすることも出来なかった土方は、蚊帳の外だけは御免だ。と、毎日近藤の元に通った。
真っ赤な目をして爺さんの寝ている部屋からでてくる近藤の隣に黙って並んだ。
だから、よく知っている。その1週間で近藤に起きた変化を。近藤自身よりもずっと。
あの時の土方は、まだほんのガキだったから、そんな近藤を見て、胸がざわついたのに、それが何なのかわからなかった。
いや分かろうともしなかった。
ただ獏膳と自分だけが置いて行かれるような感覚に小さな息苦しさを覚えていた。



近藤は強くなった。その1週間で。

外的なものではない、内面が、精神性が。
大人になった。と言い換えてもいいだろう。
技術云々ではなく、何か掛け替えのない強さを手に入れたような感じ。


**


思い起こせば、あの頃と比べて随分と年を取った今の自分に、それと同じ強さはあるのだろうか−
土方は苦笑を漏らした。
なんとなく断言できるだけの自信が無かったからだ。

やりきれないような胸の焦燥に気付いて、土方は、酒を仰ぐ。
指先は冷えたままだった。

ふと、

「トシ。俺は強くなる」

灰になって天国に昇っていく祖父を見送った後、噛み締めるようにそう言った近藤の声音を、強い眼差しを

思い出した。

迂闊にも泣きそうになった。


(今更そんなこと思い出してなんになる)


それでもグルグルと、あの時の近藤の瞳ばかり思い出してしまうのは、苛立ちの半分がそこに起因するからなのか・・・。



土方の苛立ちは、数日前、近藤と田舎に帰ってからはじまった。
その日はかの爺様の命日で、公務のついでではあったけれど、せめて墓参りだけでも。と、懐かしいあの村に、近藤と土方は二人赴いた。
故郷の秋は、江戸よりもずっと秋めいていて、どこか侘しさすら感じられた。

近藤は爺様の命日には必ずその冥福を祈る。
あの日依頼一度だって忘れた事はない。
その日一日だけは必ず、何があっても喪に服している近藤の寂しい横顔なんて、今更の事なのだ。

(なのに、なのに、どうして今年に限って)

(共に墓前で手を合わせたのは今年で何回目だ?)

多量のアルコールを摂取した頭は白くぼやけて肝心の数字を思い出させてはくれないけれど、けれど、土方だってあの好々爺の誇らしくも悲劇的な死を悼んでいるのだ。

(悲しみはいつだって訪れていたのに)

それなのに
今年に限って、土方は、
胸の奥の柔らかい部分をざわつかせるような、秋めいて寂しい空気の中で、
澄んで高い青空の下で、
墓前に花を手向けて手を合わせ祈る近藤の、静かな横顔に見とれて、不意に、唐突に、沢山のことを思い出した。

それは、初めて「俺は強くなる」と決意した近藤のあの目の色だったり、刀を失った時の事だったり、刀を取り戻した時の事だったり、真選組になってから起こった様々な事件だったり、蛙騒動の時の近藤の苦しそうな表情だったり、「よっしゃ、来い」だったりだ。

心臓の鼓動が早くなるのを感じて、土方は思わずギュッと目を瞑った。

そして、

その一瞬に、


ずっと目を背けて理解を拒絶していたものを言葉にしてしまった。



(ああ、近藤さんは、きっと、いつか、俺を置いて、俺より先に、死んでしまう)



それも自分たちを守るためだとか、誰かの身を庇ってだとか、そういう笑えもしないこの人らしい死に様で。
この人が強く強く魂に刻み付けた恩師の爺様の背に習うように。

だから自分は・・・









「トシ」


声をかけられて初めて土方は自分が目を瞑っていたことに気付く。
振り返ると、少し離れた所で、どこか寂しげに微笑む人と目が合った。

ああ、この距離は、自分が作った心の距離だ。と、直感的に感じて土方は俯く。

「お前、そんなに飲んだのか?」

縁側に転がる酒瓶を見つめて近藤が驚いた声を出した。
咎めるような響きを含んだ小さな声だ。

土方は俯いたまま何も答えない。

近付こうかどうしようか迷ったのだろう。近藤は一瞬その場に立ち尽くした。
けれども結局、昼間の事が頭に引っかかって、勇気が出せずに、そっとその場を去る方を選ぶ。

(アンタはこんな時だって、優しくなろうと懸命なのに)

「早く寝ろよ」と言い残して、去っていく近藤の背に、土方は、咄嗟に手を伸ばした。
ようやく自分が酔っているという事実に気付いた気がした。
無性に泣きたかった。


一歩踏み込んだ弾みで、冷えた床板がギシッと音をたてる。

ハッとなってピタリと止まった近藤の背に土方はお構い無しで抱きついた。
冷えた体にじんわりと体温が染み込んで、噎せ返る程に近藤の匂いを感じた。

「近藤さん・・・」

肩に顔を埋めて小さな声で名を呼ぶと

「ん?」

とても静かで酷く優しい声が返ってきた。

「近藤さん、俺・・・」

ギュゥゥと抱きしめる力を強くすると腕の中で近藤が緊張するのが分かる。


「アンタが足りない」


いつか、この腕の中の、温かさも匂いも霧散してしまう。
そんな日が来ると思うと狂おしい程に自分には近藤勲が足りない。
いつかが、明日なのか1年後なのか10年後なのかヨボヨボのジジイになる頃なのか・・・なんて、分かりやしないけれど、その日は、いつか、確実にやって来て、自分は、この人の居ない世界で、息をして剣を振るい糞をして寝る日が、来るのだ。


「アンタが足りないんだよ」


土方はもう一度吐き出すようにそう言って息を大きく吸い込む。
近藤の匂いを体温をもっと感じていたかった。
本当は近藤を抱きしめる自分の手の上にそっとその手を重ねてくれたらいいのにな。と思うのだけれど、腕の中で緊張のあまり硬くなっている近藤がそうしてくれないだろう事も理解できた。
それでいいのだ。
自分に言い聞かせてみる。
少し虚しくなった。
自分でも自分の気持ちをもてあましている。
ならば近藤は尚の事だろう。


「近藤さん」



「トシ・・・お前は、あの日、俺の中に何を見た?」



「近藤さん」


近藤の呟き声は細かった。
迂闊にも土方は、自分たちの魂が、深く深く繋がっている事を忘れているのだ。


「近藤さん、俺、アンタが好きだ」


「アンタをう・・」
「トシ」



「月が (お前が)」


(俺を)


「綺麗だな (男にしてくれてるんだ)」




土方が、はっと顔をあげる。


「・・・近藤さん、今、なんて?」


「ん?月が綺麗だなぁ。ってな」

身体ごと振り返り、いつもの距離で笑いかけてくる近藤の笑顔は、もういつも通りのものに戻っていた。

「よ!トシ」

土方はポカンと口をあけて目を瞬かせた。

「トシ君アホ面になってんぜ」

(今、なんか、重要なこと・・・つーかなんだよ誤魔化された??)

土方は今頃になって飲みすぎた事を後悔する。

(こんな酔ってたんじゃ、太刀打ちできねーし・・・)

ならいっそ

酔いに任せて









----------------------------------------------------------------------


「で、何やってんですかネ?アンタ達」



「よ!総悟」

「よ!じゃありやせんぜィ近藤さん。こんな冷えた板間に寝てたんじゃ腹壊しますぜ。つーか土方コノヤロさん、俺の近藤さんに何してるんでィ」

近藤の上に圧し掛かる土方を足蹴にして沖田は眉を寄せる。

「テメェェ!!退け沖田!!ガキが夜中に起きてんじゃねーぞコラァ。そ・れ・と、近藤さんは俺のだァァァ!!!」

酒が回ってしまった土方の叫び声が屯所中に響いた。
酔っ払いを蔑むような目で見下ろしながら、沖田がニヤリと笑む。

「冗談。近藤さんは俺のもんでサァァ!!!」

負けじとばかり大きな声だ。

「わー!お前ら何時だと思ってんだ!皆起きるだろ??あと近所迷惑だ!!!!」 

近藤も慌てて叫んだ。

((アンタが一番迷惑だよ))






「アラ〜総悟ちゃんったらイイトコなのに邪魔しちゃって」

「いいじゃねぇの。ようやくいつもの3人に戻ったんだ」






 

戻る

抜け駆けはありえない真選組。秘密筒抜け。
隊士(隊長)の中にオカマキャラがいると信じてます。
暑苦しいあとがきはこちら